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「自然に演奏してください」を読んで

2013年06月21日 18:00 | コメント(0) | トラックバック(0)

図書館で借りた本「自然に演奏してください―パブロ・カザルスの教えとアレクサンダーワークの共鳴 」を読んで響いたところをメモ。

チェロの近代的奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において20世紀最大のチェリストとされるパブロ・カザルスの教えとアレクサンダー・テクニーク、両方を経験した著者へのインタビューをまとめた本。

P.57 より引用
「かかるだけの時間をかけましょう」とても斬新なアイデアでした。

付け焼刃的なテクニックはやらず、最初から本質的なとこをやる。それはものすご〜い遠回りのように見える。でも本質的なところに向き合えてる実感がある。だからこそ、かかるだけの時間をかけられるんでしょう。

P.91 より引用
「やろうとしないで下さい」、「動きが起こってくるのを許しましょう。余計なことをやめていくのです。待っていれば、正しいことは自ずから起きてきますから、道を空けておきさえすればいいのです」

ゆだねるということ。

P.104 より引用
「必要な刺激によってもたらされるこの柔軟な動きは、身体の中心から起こってこなければならない、そう理解してよろしいですか」という質問に対しカサルス氏が答えています。

「これはわたしの信ずる自分流の理論にすぎません。少なくとも、誰かにその部分について教えてもらったことはありません。先生方でさえ何も言いませんでした。その刺激が身体の中心からやってきている時、つまり部分のみではない時に、全体の動きがうまくいき、身体のいろいろな所でやっていることが全体として統合されていき、より良い結果をもたらすと同時に、疲れが減ります。この刺激は、どこからきているかというと身体の中心と私が呼んでいるところから来ていますが、イメージとして私が感じているようなものに過ぎませんし、簡単に決めて命名するわけにはまいりません」

僕にとっての「芯をとらえる」か。

P.106 より引用
 「それから、もう一つ保証しましょう。私は左手の指使いと腕の動きにおいても因習を変え、やり方を修正しました。ずっと、私の『自然』な線に沿ってアプローチし続けます。生命が溢れる自然な状態で観察を続ければ、必ず何かが学べます。準備ができていて、辛抱強く粘り強く観察できる人は、かならず成し遂げます。
 こうした調査法と考え方を技術として使います。これを自分で始め、今も続けています。やればやるほど良くなり、どんどんやっていけるようになります」

常識にとらわれず、自分にとっての『自然』にアプローチし続ける。そこにはたぶんゴールがないから、どこまでもやっていける。芯のさらに芯が見えてくる。

この本を読んで、昨日のランニング本のようにチェロをやってみたいとはならなかったけど、ちょっとかじってる二胡には通じるかな。本質的なところではなんにでも通じるでしょうけど。

「ランニングを極める」を読んで

2013年06月20日 20:44 | コメント(0) | トラックバック(0)

図書館で借りた本「ランニングを極める アレクサンダー・テクニークで走りの感性をみがく」を読んで響いたところをメモ。

アレクサンダー・テクニークがどんなものかよく知らなかったけど、その単語にピンときたので関連本をまとめて借りてきた、そのうちのひとつ。

アレクサンダー・テクニークはもともと発声を改善しようとするところから生まれたものだけど、楽器演奏、演技なんかにも応用されてるらしい。で今回最初に手にとったアレクサンダー・テクニーク本は、ランニングに応用した内容だった。

P.6 より引用
アレクサンダー・テクニークとは

 ランニングのことを、ある種のテクニックだとか、あるいは科学として、または健康のための手段としてとらえるのでなく、アートとして取り組むとき、ランニングはまったく新しい様相を帯びる。
 まず、ランナーのモチベーションが変化する。レースに勝つことや、前もって目標として決めたタイムはそれほど重視されず、探求の過程や、ランニングのよって得られる高い意識に重点がおかれるのだ。それこそがこの本のテーマである。本書は、フレデリック・アレクサンダーによって生み出されたテクニークの原理を土台としている。
 アレクサンダー・テクニークは、無意識のうちにおこなわれる非生産的で習慣的な動作を生み出す、身体の反応に注意を向け、意識的にその反応をコントロールできる能力を育てようとするメソッドだ。身体の自動的な反応は、無意識のうちに陥るクセ――頭を後ろや下に傾かせてしまう習慣――の根底にあるもので、「頭−首−背中」のバランスの良い関係を歪めることになる。
 このテクニークは、自分自身の考え方や動作に対し、効果的な指令をあらためて明確に出すことで、習慣的な反応を捨て去る方法を教えてくれる。この精神物理学的な再統合を通じて、私たちは自分自身と再び触れあうことができるようになる。ランナーも恩恵を受けるであろうことは明白だろう。

 アレクサンダーはまた、結果にばかり気をとられると、動作のプロセスとの強調関係を失うことになると考えた。彼はこういう発想をエンド・ゲイニング(end-gaining)と呼ぶ。いわば「結果がすべて」のエンド・ゲイニングは、私たちの社会に広く浸透している考え方なので、もはや「あたりまえ」に思える(もちろんあたりまえではない)。しかし、プロセスとの協調性を取り戻したとき、人はその瞬間に身をおき、瞬間ごとに少しずつ違うなにかに気がつくはずだ。

アレクサンダー・テクニークはスピリチュアルものではないみたいだけど、響くとこは共通してる。

P.61 より引用
ミーンズ・ウェアバイ

 エンド・ゲイニングにもとづいた活動はたいてい、結果だけで評価される。バーに取りつけたウェイトの重さや、ランニングマシーンで走った時間、ひと月にどのくらい減量したか、といったように。どれだけ進歩したかをはかるには、客観的な数値はたしかに有効だ。しかし、どのような活動でも、その成果が「進歩」という唯一の指標ではかられてしまうのは問題である。指標がたったひとつしかないと、成果というものに対してまちがった認識をもったり、目標を達成できなかった場合には挫折感だけが残ることになる。アルベルト・アインシュタインは、こうした手法は本質的に無益だと言い、「重要なものすべてが数えられるとはかぎらず、数えられるものすべてが重要というわけではない」と言っている。
 競争を好む人は往々にして、エンド・ゲイニングな基準によって、成功か失敗かを評価する。しかし自分自身の健康(身体能力)を維持したり改善したりするのに、競争という考え方は必要ないし、むしろ邪魔なものだ。本当の進歩というのは、行動のプロセスにもっと深く集中したとき、そしてそれによって闘争心が和らいだときに得られることが多いのだ。これがアレクサンダーのいうミーンズ・ウェアバイ(means whereby)である。

そうか、違った視点を認められるようになることこそ大きな「進歩」といえるのかも。

外側の基準から内側の基準への切り替え。人生における最大級のチャレンジだ。

P.166 より引用
 おそらく年齢を重ねたためだと思うが、今ではもう、一度決めたことを強引にやりぬいて、自分の何かを証明してみせるようなことはしない。その代わり、私の身体の動きを意味もなく損なうようなやり方ではなく、自分の「本質」をどのように表現するか、それが課題となった。以前よりレースの出場回数が大幅に減ったのは、準備せずにレースに挑みたくないというのが大きな理由であり、さらにもっと重要なのは、その体験を楽しめないのなら出場したくないと思っているからである。さらに、限界を超えようとしたときに感じる苦痛も、レースを避ける理由のひとつになっている。

そうそう。自分の「本質」をどのように表現するか。それが楽しい課題だ。

姿勢や身体の使い方が変化すると、ただ立ってるだけや、スーパーからの帰り道を歩いてるだけでも、楽しく、とっても心地よくなる。僕にとっては芯をとらえてるという感覚だ。これは前回ブログの記事を書いた後、ずっと向き合ってるテーマ。身体も心も生き方も、芯をとらえるバランスの取り方は同じ、そんな気がする。

最近、歩き方を変えたり(かかとじゃなく拇指球で着地する)、フットサルの休憩中にグラウンドをダッシュしたりするのはこの本の影響だ。
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